福岡高等裁判所 昭和49年(う)317号 判決 1974年9月26日
主文
本件控訴を棄却する。
当審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、被告人及び弁護人吉田徹二提出の各控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検事遠藤政良提出の意見書記載のとおりであるからここにこれを引用する。これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。
一 弁護人の控訴趣意中法令適用の誤りについて。
所論は、原判決は、原判示第一の無免許運転の所為と同第二の速度違反の所為とは、刑法四五条前段の併合罪であるとして原判示第一の罪の刑に法定の加重をしているが、これは法令の適用を誤ったものである。すなわち、被告人は、無免許で自動車を運転中に速度違反を犯したものであるが、右二つの行為は共に時間的継続と場所的移動を伴うものであって、その時間的継続と場所的移動に多少のずれがあったとしても、右二つの行為は重なり合うのであって、法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとでは、社会的見解上一個のものと評価し得る。しかるに原判決は、無免許運転の行為と速度違反の行為を一個の行為とせず、二個の行為として評価し刑法四五条前段を適用しているが、これは同法五四条一項前段の一個の行為についての判例の解釈と異なっている。本件においては、刑法五四条一項前段を適用すべきものであるから、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤りがある、というのである。
よって案ずるに、刑法五四条一項前段にいう一個の行為とは、法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、行為者の動態が社会的見解上一個のものとの評価をうける場合をいうと解すべきこと(昭和四九年五月二九日大法廷判決)は、所論のとおりである。しかしながら、無免許運転の所為は、車両運転者自体と不可分の身分的性質を持った行為であり、その行為の形態も、運転開始から運転終了まで無免許の状態が続き、通常かなりの時間的継続と場所的移動とを伴うものであるのに対し、速度違反の所為は、運転者の資格の有無や属性とは係わりなく、運転継続中における一時点、一場所における偶発的事象であって、前記の自然的観察からするならば、両者は特段の事情のない限り社会的見解上別個のものと評価すべきであって、これを一個のものとみることはできない。
これを本件についてみると、原判決挙示の各証拠によれば、被告人は、牛の飼育方法を勉強するため、運転免許がないのに乗用自動車を運転して肩書住居から下益城郡豊野村の農家に赴き、さらに同郡中央村の農家に行く途中、帰りの時間が気になったのと、原判示場所付近が直線道路で見とおしがよく交通量も閑散であったところから、時速約一二〇キロメートルに加速し、原判示場所では時速九七・二キロメートルで走行したことが認められる。右認定の事実に鑑みると、本件における無免許運転の罪とその運転中に行われた速度違反の罪とは、二個の行為として評価したうえ併合罪の関係にあるものと解するのが相当であり、原判決のこの点に関する判断は正当というべきである。所論は理由がない。
二 被告人及び弁護人の量刑不当の主張について。
所論は、要するに、原判決の科刑は重すぎるので寛大な処分を求める、というのである。
そこで原審記録を調査して検討するに、被告人は、昭和四三年四月から同四六年一一月までの間に道路交通法違反罪(うち無免許運転三回、速度違反二回)により六回罰金刑に処せられ、さらに昭和四八年五月二二日業務上過失傷害罪を犯して同年八月頃運転免許を取消されたにも拘らず、その後も無免許で車を運転して同年九月一一日罰金二五、〇〇〇円に処せられ、また右業務上過失傷害罪につき同年一一月五日罰金二万円の刑が科せられたにも拘らず、今回もまた無免許運転をしたうえ、法定の最高速度を三七・二キロメートルもこえる速度違反を敢えてしたものであること、以上の事情を総合すると、被告人の遵法精神の欠如は甚だしく、その刑責は軽視できないというべきである。所論が、被告人において本件無免許運転及び速度違反をなすに至った動機として主張する事情の如きは、現在この種事犯に対する世論の厳しいことに鑑みると、格別斟酌に値する事情であるとはいい難い。その他所論指摘の、被告人の家庭の事情、ことに被告人が本件により実刑に処せられると家業の農業に支障があること、被告人が現在では反省していること等の諸事情を十分斟酌してみても、本件が刑の執行を猶予すべき事案であるとはいい難く、記録を精査しても、原判決の科刑が重きに失し不当であるとは認められない。それ故、論旨は理由がない。
よって、刑事訴訟法三九六条に則り本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文によりこれを全部被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。
(裁判長判事 淵上寿 判事 徳松巌 松本光雄)